夫の死について 「財布の中身」
まとめて読めるように、リンクを貼っておきます。別窓で開きます。
夫が亡くなった時に持っていた財布には五万円ちょっと入っていた。
失踪した日、仕事復帰用に下ろしたお金がまるまる残っていたのだ。
その頃、私は毎日不思議な幻覚を見ていた。色とりどりの花だ。
私はなんだかわからずただ受け入れていた。
薬の影響なのか、異常事態で興奮していたのか、何かしなければならないと常に焦っているような日々。
焦りながら動きまわり、電池切れしたように横たわり、眠りは浅く短い。
最初は、夫に花を供えるべきなのかと、毎日のように花屋にいって切り花を買って飾っていた。
それでも幻覚はずっと花を見せ続ける。
夫の財布のお金を使って花を植えよう、唐突にそう思った。
生前、マンションの植栽が全部枯れ果ててみっともないことや、犬といつも行く公園の花壇がミントとセージと雑草とゴミで酷いなあとぼやいていたことを思い出したのだ。
マンションの植栽は次の大規模修繕まではどうにもならないと管理会社に言われ、許可をとって枯れた植栽を全て抜いた。
雑草だらけだった場所をきれいにして、防草シートを貼って白い石を敷き詰めた。
日陰で陰気な建物の裏に、暗くても育つ葉物と蔦を植え込んだ。
丸ハゲになった植栽は、土壌改良をして花の苗を植えた。半分はすぐに撤去できる鉢物、半分は季節の花。
これならいつでも撤去できる。
苗の種類は、なぜか育てやすい季節のものの前で「ここ、これ」と声がした。
夫の声ではない。なんだったのか、全くわからない。
それから、花壇を掘り返した。これも市役所の公園担当に許可をとって始めた。
雑草を抜き、ミントとセージが真ん中で競り合っているのをどうにかこうにか抜いて、両端にそれぞれの生きるエリアを残して、土を篩いにかけた。
道具はかなり本格的なものをホームセンターで購入した。大きなシャベルや鍬、篩、刃の丈夫なハサミ。
畳二畳ぐらいの花壇は思ったより手強い。なぜだか乳児の頭サイズの石や欠けた瓦がザクザク出てきた。
作った人はそもそも花など植える気はなかったのではないか。そんな土の質だった。
ミントは根を深く広く張っていて、ただ耕すだけではまたミントとセージの戦争になるのは間違いない。
仕方なく、45センチほどの深さまで掘って、防草シートを張り、花用に土を全て入れ替えた。
篩いにかけたもとの土は、公園の低いところに撒いた。いつも雨が降ると沼みたいになるエリアが気になっていたのだ。
石や瓦は、大きい物を縁にして、トイレまでの短い通り道を雨でも泥が撥ねないように砂利道にした。
土を入れて、苗を植えて、ゴミを拾い、周りの雑草も抜き、作業は終った。
作業中は何も考えていなかった。作業が終わると横たわる、浅い眠り、また作業、その繰り返しの約一ヶ月。
あの仕事をもういちど最初からやれと言われても絶対に無理だ。
説明がつかない。なんだったのだろう。
植え終わり、咲きそろう頃、花の幻覚は消えた。
夫のお金は道具と土と苗や小石できれいになくなった。
植物は世話をしなければ生きていけない。当然ながらそのために私は少しは外に出なければいけない。
どんなにしんどくても、ヨロヨロ水やりに行く。
マンションの管理組合から、感謝と差し入れの申し出があったが、差し入れは断った。
ただ私がやりたくてやったことだ。
このマンションは飛び降り自殺が十年間で二人。ふたりとも、他所から来て飛び降りた。
もう、ここでそういうことがないように、という願いもあった。